Ep.222
映画監督、小津安二郎(1903-1963)の最高傑作は『東京物語』(1953年)だと誰もが思っている。
だがそれは誤りだ。
『浮草』(1959年)こそ、ザ・ベストである。
母の家系が伊勢商人で実家は津出身。本人は東京生まれだが小学生のとき父の「田舎で教育させた方が良い」という教育方針(?!)により、一家で松阪に移り住むこととなる。
日本映画界の最高の巨匠の一人である小津は、三重県ゆかりの人物だ。
<最高傑作との名声高い『東京物語』だが…>
1953年公開の『東京物語』。広島・尾道に住む周吉(笠智衆)と妻・とみの老夫婦が東京で暮らす成人した子どもたちに会いに行く。
けれど特に長女・志げ(杉村春子)は、せっかく両親が遊びに来たのに迷惑そう。自身の仕事や日々の生活に忙しいのだ。長男夫婦もまた同様。唯一、戦死した次男の妻・紀子(原節子)だけは義父母を心からもてなす。
東京観光もろくにできず、実の子供たちからも歓待されないため予定を切り上げて尾道に帰ることとした周吉たち。すると道中で妻・とみが体調を崩し、そのまま帰らぬ人となり…という物語だ。
私は最初に観たとき、ひどくつまらない映画だと思った。
けれど同作のあまりの名声の高さと自分の感想のギャップに、「自分は何か見落としているんじゃないか? 自分の見方が悪いんじゃないか?」とモヤモヤが残った。
そしてしばらく経ってから2回目を観た。先よりもっと真剣に。
結果、やっぱりつまらなかった。正直なところ、まったく面白くない。
志げ(杉村春子)を始め、両親を邪険に扱う子どもたちの描写は腹立たしいことこの上なく、不快である。
同作がこれほど有名になった一端には時代背景もありそうだ。
戦争はもう終わった。戦後すぐの混乱期も一通り終わった。人々は未来に向かって、社会も新しい時代に向かって走っている。
みんな忙しいのだ。自分の事で、いっぱいなのだ。
そんな様相をリアルに示したのがきっとこの映画だった。当時の人たちにとって衝撃は大きかったに違いない。
「仕事 > プライベート」になっていく、高度成長期前夜でもある。
両親への親愛の情も、他者をもてなす心の余裕も、希薄になっていった。
当時鑑賞した人の中には、世の空気を言い当てられた気恥ずかしさや、自分事だと思って後ろめたさを感じた人も多かっただろう。
「わしらに一番良うしてくれたのは血が繋がってないあんたじゃった。ありがとう。あんたが再婚して幸せになってくれることが、わしの願いじゃ」
と心からの感謝と亡き妻の形見である腕時計を送る周吉。
「私なんて、そんな…」
と泣き崩れる紀子。
紀子というキャラクターと、演じた原節子を“神格化”させたシーンである。
日本映画史、いや世界の映画史に輝く伝説のシーンとなっている。
<異色の作品『浮草』>
家族の機微を描くことが得意な小津が、”旅役者”について描いた作品。
これらの観点から異色作とされる『浮草』は1959年の作品。
キャストは以下である。
嵐駒十郎:2代目中村鴈治郎(1902年生。目力が凄い。女優の中村玉緒さんのお父さん。1983年没)
すみ子:京マチ子(1924年生。”絶世の美女”型女優。本作でもその美しさは神々しい。2019年没)
お芳:杉村春子(1906年生。『東京物語』ではイヤ〜な長女の役だったが本作では…。1997年没)
清:川口浩(1936年生。顔がカッコいい。典型的な2枚目。私は世代ではないが後に「川口浩探検隊」で人気を博す人。1987年没)
加代:若尾文子(1933年生。若くて可愛い本作のヒロイン。後に建築家の故・黒川紀章さんの妻に)
相生座の旦那:笠智衆(1904年生。説明不要の「日本映画史上最高の老け役」。1993年没)
[あらすじ]
夏、旅役者の嵐駒十郎一座は渥美半島の伊良湖岬からフェリーに揺られて志摩半島にある小さな町(モデルは三重県志摩市)にやって来た。公演のため同地にしばらく滞在する。駒十郎(中村鴈治郎)は楽しみにしていた。かつて深い仲になったお芳(杉村春子)と、成人した息子・清(川口浩)に12年ぶりに再会できるからだ。お芳とは今や「恋愛」関係にあるわけではないが、お互いに信頼しあい、良好な関係を築いている。清には自身が実の父親であることは伏せていて「叔父」と称している。駒十郎は立派な青年になった清との交流が嬉しくてたまらない。清もまた再会を喜んでくれた。公演以外の時間、二人は釣りをしたりなどして一緒に過ごす。
そんな様子を、劇団の看板女優であり駒十郎の公私に渡るパートナーであるすみ子(京マチ子)は気に入らない。とても、気に入らない。(お芳の預かり知らぬところで)激しい嫉妬心に燃える。プライドが高く”絶世の美女”タイプの自身と異なり、お芳は美人ではないが母性に溢れ、陰ながら駒十郎を支え、慕い、また一座の公演も心から楽しんでいる。すみ子は気に入らない。それが元で駒十郎とすみ子は激しく口論になる。口汚く彼女を罵る駒十郎。ブチ切れる駒十郎。圧巻の剣幕の駒十郎。負けずに口撃するすみ子。ここが、大雨が降る中、軒下にいる両者が路を挟んで激しく言い争うという、作中一の有名シーンである(後述)。
すみ子は一計を案じる。後輩の加代(若尾文子)に清をそそのかすよう言う。加代は姉さんからの依頼を受け(そしてお小遣いももらい)、清に接触する。すると、共に純真な心を持つ清と加代はやがて互いに惹かれあい、本当の恋仲となる。
清と加代が二人で一緒にいるのを偶然目撃した駒十郎は激しく狼狽する。そして後に、加代を激しく詰問する。口汚く彼女を罵る。パワハラもモラハラもあったもんじゃない、それどころか加代をどつく駒十郎。ブチ切れる駒十郎。兎にも角にもブチ切れる。そして加代の口から、これはすみ子からの依頼だったと聞き出す。
物語は進む。やがて一座の元に、この先の公演予定地である紀州・新宮に先乗りしたはずだった団員の一人が、金を持ち逃げした(!? 銀行振込がない時代だ)との一報が入る。
驚愕の駒十郎と団員たち。一同、座敷で円になって座り込み、沈痛な表情。そして駒十郎が口を開く。「一座を解散する」と。ある者は役者を辞め、ある者はツテを頼ると言う。場は重い空気だ。
駒十郎も、旅役者の団員たちも、特定の土地に根ざしていない浮草(うきぐさ)なのだ。
クライマックス。清と共にいる加代をなおも叱る駒十郎。しかしすでに彼女と恋仲の清はかばう。場はヒートアップし、ついにお芳が「駒十郎はあんたの実の父親」だと、「あんたの養育費として金銭的援助もしてくれていた」のだと清に告げるが、清は「なんで今になって出てくるんや。おれには父親なんていらん。出ていってくれ」と言う。筋の通った理屈。駒十郎は激しく落胆し、加代に清のもとにいるよう言い、その場を去る。
離れて暮らせど、心からの愛情を注ぎ、誰よりも息子の将来を楽しみにしていた駒十郎。なのに何故、一体何を間違えたというのか?
お芳と、清と、自身の3人で、穏やかで最良な”家族”という当たり前のかたちを、何故とれないのか?
哀しさと可笑しさと。駒十郎は、何故幸せになれないのか?(著者感想)
ラストシーン。夜の寂しい木造駅舎で汽車を待つ駒十郎とすみ子。夜の闇に虫の音が聞こえる。秋が近いのだろう。駅には二人の他に誰もいない。すみ子は話しかける。「またやり直そう。これから二人でがんばろう」と。それを無視し、自身のタバコにマッチで火をつけようとするすみ子に無言で抵抗する駒十郎。
長い沈黙を経て駒十郎は口を開く。「桑名のツテを頼ってみるか。また一旗あげてみるか」と。笑顔のすみ子。駒十郎の心に小さな火が灯った。
というところで物語は終了する。
まあこんなところだが、あらすじを文字で起こすにあたり同作を思い返すと、あぁ、本当になんて素晴らしい映画なんだろう、とあらためてうっとりする。印象的なシーンがいくつもいくつも、思い出される。
本作、私が思う『浮草』の着目点として5つ(!?)を挙げた。
<『浮草』の着目点1 結局、印象に残るは笠智衆>
序盤、一座が寝泊まりすることになる宿の座敷に一人の老人が挨拶にやって来る。彼は公演場の旦那で一座を同地に12年ぶりに招いた人のようだ。
この老人が現れたとき、私は
「あっ、りゅうちしゅうだ!」
と思った。キャストを確認せずに観始めたためこの人が出ているのを知らなかったのだ。
笠智衆と中村鴈治郎の会話シーンとなる。『東京物語』のラストシーンのように、カメラがほぼ正面から画面いっぱいに両者をそれぞれ捉える。
笠智衆:「ほれ、この前の...、◯◯の役やった」
鴈治郎:「ああ、△△ですか? 死にました。福知山で」
笠智衆:「なんで?」
鴈治郎:「脳溢血ですわ」
笠智衆:「い〜役者やったがなぁ。わからんもんやなぁ」
上記の会話シーンが終わり、笠智衆はお役御免。その後物語には出てこない。
会話の内容が内容でも大きなリアクションをとることはない。相変わらずゆったり話す。泰然としている。
笠智衆の芝居は一見すると「これ台本の棒読みじゃないの?」 と思うこともある。
が、あの口調、抑揚、表情、眼差しはいつまでたっても心に引っかかり、結局鑑賞し終わった後、最も印象に残る役者がこの人になる。
『浮草』を観て思ったのは、端役でもそうなんだ、ということ。結局、この人が最後に持っていくのだ。
私は二人の会話の内容にも軽く衝撃を受けた。この時代は死が日常にあるのだ、と。
と、思ったが鑑賞し終えてしばらく経つと、自分はもっと深いところで驚きを感じたのだと気付いた。
というのは、旅役者とは同じメンバーで同じ公演内容を繰り返す人たちだ。ただ場所が移り変わるだけで、年がら年中同じことを繰り返している。
が、時には仲間の急死という「非日常」に遭遇する。今と同じ延長線上に未来があるわけでは、ない。
その、いわば当たり前の事実に気付いて、驚きを感じたのだと思う。
<『浮草』の着目点2 顔が違う杉村春子>
お芳を演じる杉村春子さんが画面に登場したとき、ひどく驚いた。
まるで顔が違ったからだ。
『東京物語』の志げが、言い方は悪いが“クソババア”であるのに対し、本作のお芳は、優しくて実直な役柄。
それが表情一発で理解できた。
すごいと感じずにはいられない瞬間だった。
お芳の、いわゆる“良妻賢母”のキャラクターがいたから、すみ子(京マチコ)のプライドの高さと美しさが際立つのだ。
『東京物語』のときだってそうだった。
志げというキャラがいたから、紀子と原節子が神の如き存在になり得たのだ。
そんなことくらい、わかっていたさ。
<『浮草』の着目点3 中村鴈治郎vs京マチ子史上最高の言い争い 大雨の降りしきる軒下にて>
同作品で最も有名なのが、大雨の軒下での中村鴈治郎vs京マチ子の言い争い、というか罵り合いである。
私は過去に創作物でこのようなシーンを見たことがない。類似のシーンも見たことがない。
絵画的でもある。セリフもいい。信じられない。
本作品を初めて観たとき、私は電車での移動中にスマホで観始めた(長時間移動中に私はよくこういうことをする)。正直に言うと、序盤はあまり真剣に観ていなかった。
だがこの雨中のシーンから、加速度的に惹き込まれていった(遅いよ!)
そして思った。
この作品は最初から最後まで真剣に観なきゃダメだ!
と。
そんなわけで、最後まで観終わった後すぐに、また始めから再生するはめになったのだった。
この雨中のシーンに至るまで、例えば駒十郎と清は再会したときどんな会話を交わしてたっけ、中村鴈治郎はどんな表情をしていたっけ、と。
使い古された表現だけれど、
銀幕の中のスターというのは、永遠に輝き続けるのだなぁ
とこのシーンを見てしみじみ思う。
この2人だけじゃなく、現在では主要キャストのうち若尾文子さん以外はみな鬼籍に入られた。
本作は、65年前の映画である。
<『浮草』の着目点4 季節は夏>
本作の季節は夏である。この設定は抜群にいい。やっぱり志摩には夏が似合う。
作中、登場人物たちが扇子やうちわで扇ぐシーンがたくさん出てくる。
うちわをパタパタパタパタ、パタパタパタパタ扇ぐ。
私はこれがいやに気になった。これも小津監督の演出だろうと思った。暑い夏を表現するための。
しかし考えるとこの時代にはクーラーも扇風機もない。
するとこのように、どこもかしこも人々がうちわをパタパタ扇いでいる光景は、当時の日常だったのかもしれない。特別な演出などではなく。
1950年代が舞台なのだ。私は遠い昔に思いを馳せた。
本作における”季節”に関して。あらすじでも記したようにラストシーンは夜の寂しい木造駅舎で汽車を待つ駒十郎とすみ子だ。このシーンは二人のセリフが少ないから必然、バックの音が際立つ。夜の闇から聞こえてくるのは虫の音だ。もう、秋が近いのだ。
夏から秋へ。新しい季節がやって来るのと同時に、駒十郎(とすみ子)もまた、これから彼の新たな人生が始まることを示唆して物語は終わるのである。
<『浮草』の着目点5 物語の舞台は三重県>
一座がフェリーに乗ってやって来る。青い海と大王崎の灯台。登場人物たちの着物の色。
冒頭から、思わず私は「えっ!?」と驚いた。
色彩が美しすぎる。
確かに『東京物語』はモノクロであるのに対して本作はカラー映画。けれど"デジタルリマスター版"だから、というそんな理屈ではない。
これが小津監督の手腕と技量なのだ。
「◯◯万画素」のように昨今の(デジタル)カメラのスペックを謳う文句も、小津監督の前には無意味だ。
本作には1950年台の志摩市の美しい風景が映し出されている。
ラストシーンの木造駅舎は、玉城(たまき)町の田丸駅とのことだ。
一座の次の講演先は新宮の予定だった。ラストに駒十郎がツテを頼って向かう先は桑名(Ep.31など参照)だ。
そして極め付けは一座の解散シーン。
駒十郎が若手団員の一人に尋ねる。
「○○はこれからどうするんや?」
「前の主人のとこでまたお世話になろう思います」
「確か一身田の松の湯やったな」
私は思わずニヤッとした。
「一身田(いしんでん)」なんて地名が出てきたところで、三重県外の人にはまず伝わらない。
津市の一身田は真宗高田派の本山、専修寺(Ep.55参照。津市大門の津観音には小津監督の記念碑もある)があり、自治都市として発展した経緯のある津市の中でも格調高いエリアである。小津監督の母方の親戚は津なので、このあたりはよく知っていたのだろう。
あらためてこの映画の舞台は三重県なのだ。
小津監督のふるさとへの強い想いも入っていたはずだ。
実は私がこの映画の存在を知ったのも、小津監督の生誕120年、没後60年を記念して志摩市で上映会が行われるという地元の新聞記事だった。(2024年1月23日。中日新聞)
小津安二郎の最高傑作『浮草』。
それは、これからもずっと、この地で愛されていくのだろう。
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『浮草』“Floating Weeds” by Ozu Yasujiro
Ep.222
One of the greatest movie director, Ozu Yasujiro (1903-1963) was from Matsusaka, Mie.
“浮草Floating Weeds” is an only his film which is set in Mie and human drama regarding to itinerant entertainer.
What was shown in this fantastic film was beautiful nature and sight in Shima region, 1950’s.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E8%8D%89_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E
https://www.chunichi.co.jp/article/842003